ゴルフヒストリー

NICE ON 1月号【Vol. 447】


脈々と受け継がれるコース設計論の系譜。

ゴルフの発展を語る上で見逃せない要素に、そのフィールドであるコースの設計論の変遷がある。
ゴルフがスポーツとしてまた、アウトドアのゲームとして他のスポーツやゲームと違うのは、プレーするフィールドがそれぞれ個性的で、形式や内容に同じものが何一つないことだ。プレーする場所が変われば、そのつど条件が変わるため、挑戦欲や戦略を合わせていく技量が要求される。これが、ゴルフが飽きられないスポーツやゲームとしての魅力と言えよう。
コースの発展の歴史は、ボールの変遷過程と深い関係があるが、今号は、コースの設計論の流れについてその歴史をさぐってみたい。
コースの原型は、スコットランドのリンクスに造られたもので、自然の地形、天然のハザードを利用したものだった。いわば、現場主義・経験主義的なものであった。やがて、ゴルフというゲームがイングランドに広まっていくとオックスフォード、ケンブリッジに代表されるアカデミックな学識を備えたインテリ達がコース設計に参画するようになり、コースの形に変化が生じるようになった。これが、戦略型コースの誕生で、この思想を踏襲した設計家が次々とコースを造っていき、ゴルフは今日の発展を見ることになった。

19世紀末までは、使用球はガタ・パーチャだった。このため、スコットランドに造られたコースもプロの経験主義・現場主義が色濃く反映している。ここでは、明確なコース設計論というものは存在しない。20世紀に入り、ゴルフがイングランドで広まるにつれ、前出のケンブリッジ大学ゴルフ部出身のジョン・ローによってコースの設計が理論化された。この時は、既存コースの改造だった。近代設計の始まりは、ローの友人であるハリー・コルトからで、その配下であるアリスター・マッケンジー、ヒュー・アリソンへとその思想が受け継がれていった。これが、近代ゴルフ設計の原型となっている。
名ゴルファー、ジェームス・ブレイドの設計やチャールズ・マクドナルドが英国の各リンクスの名物ホールから18ホールを選んで、そのエッセンスを基に18個のホールから成るコースを造ったのもその流れを汲むものだ。
日本では、1901年六甲山の山頂に4ホールが造られ、1903年に9ホールとなり「神戸ゴルフ倶楽部」が誕生、翌年18ホール規模となった。
日本でのコース設計は、1930年末に来日したチャールズ・ヒュー・アリソンにより、近代化の道を歩む。
その手法や設計思想は、アリソン招聘の原動力といわれる大谷光明、赤星四郎・六郎兄弟、藤田哲哉に大きな影響を与えた。そして、霞ヶ関カンツリー倶楽部(西コース)の改造の現場で学んだ井上誠一、廣野ゴルフ倶楽部の建設助手を務めた上田 冶等に脈々と伝えられていった。こうして、名コースと言われるコースが次々と造られるようになり、設計論は時代の要請、用具の発展や周囲の変遷を汲み込みながら近代設計へと形づくられていった。

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