ゴルフヒストリー

NICE ON 12月号【Vol. 446】


日本人の設計による日本人のためのゴルフ場1号は、東京ゴルフ倶楽部。設計の原動力となったのは、英国人設計家のチャールズ・アリソンだった。

日本のゴルフ史を紐解く手法には、さまざまな角度からのアプローチが考えられる。歴史をその時代を俯瞰的にみることにより、当時の香りや色彩までも運んでくれるからだ。
例えば、ゴルフ場を「日本で最初にできたゴルフ場」ではなく、「設計史」という観点から捉えてみると、1901年(明治34年)に六甲にアーサー・ヘスケル・グルームが創設した神戸ゴルフ倶楽部が日本でのゴルフ場の原点という史実からは、多少ニュアンスが変わってくる。では、日本人の設計による、日本人のためのゴルフ場1号はどこだろう。
東京ゴルフ倶楽部がそれで、1913年(大正2年)、井上準之助、樺山愛輔らニューヨークやロンドンなどでゴルフの見聞を広めた各界指導者によって設立された。最初のコースは東京の駒沢。時を経て、1932年(昭和7年)にC.H.アリソン氏を招き、埼玉県朝霞に本格的なコースが完成した

日本人の手による日本人のためのゴルフ場の誕生には、赤星四郎、六郎兄弟、大谷光明、藤田欣哉といったアマチュア出身のコース設計家を輩出する大正、昭和初期まで時代を跨がなければならなかった。そして、日本人のコース設計家を育て日本の自然風土に合ったコースの建設を熱心に説いたのは英国人の設計家、C.H.アリソンであった。
東京ゴルフ倶楽部が発足した時代には、神戸、根岸、横尾、雲仙、鳴尾が存在したが、それらの殆どは外国人アマやプロが描いた簡単なサンドグリーンの造りであった。
世界のコース史をみても、欧米の名コースを多く見聞し、ゲームとしてのゴルフを確立するための手法を学ぶというのが設計の基本とされることは明確だ。赤星兄弟や大谷光明はそれを実践し、ゴルフの技術を磨き、その上でコース設計という未知のジャンルを切り開いていった。

東京ゴルフ倶楽部は、戦火などの影響で2度の移転(駒沢→朝霞→狭山)を余儀なくされるが、そのたびにコース造りに参加した人たちが世界レベルの見識とゴルフへの情熱を醸成されていったことは、日本のゴルフ場レベルの向上には大きくプラスしたことは見逃せない。秩父CC(埼玉県狭山)と合併した折に、大谷光明氏が設計に当たった。
なお、C.H.アリソンといえば、深いバンカーで縁がオーバーハングする「アリソン・バンカー」で有名だが、日本のコース史に果たした役割や影響は計り知れない。朝霞、廣野やその他多くのコース設計にたずさわったが、彼が実際に設計したコースとしては廣野が現存するだけである。
C.H.アリソンは、日本のコース史におけるペリー提督の「黒船来航」に例える史術家もいる。ゴルフコースの設計は、紛れもなく文化なのである。

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