ゴルフヒストリー No.2

NICE ON 2月号【Vol. 436】


日本人が造ったメイドインジャパン初のゴルフコースは・・・

日本初のゴルフコースといえば、1901年(明治34年)に英国人のアーサー・へスケス・グルームが4ホール(1904年には18ホールが完成)で開拓した「神戸ゴルフ倶楽部」だが、これは、外国人の手になるもので、自分たちがゴルフを楽しむためというのが出発点とされる。では、日本人による日本人のためのゴルフコースの原点となったのはどのゴルフ場だろう。ゴルフがオリンピック競技の種目として復活、日本にゴルフが上陸して110余年の時が流れる。日本人による日本人のためのゴルフ場。そんなノスタルジックな話題を紐解くのもゴルフに触れる楽しみだ。

年代順にゴルフ史のページをめくってみると、1904年(明治37年)に兵庫県武庫郡魚崎町に6ホールのゴルフ場がオープンしている。「横屋ゴルフ・アソシエーション」で、これが日本におけるゴルフ場の第2号と言われる。横屋は、僅か10年で解散、代替地として旧鳴尾競馬場跡地に「鳴尾ゴルフ・アソシエーション」(9ホール)が造られた。この鳴尾には、89人の会員がいたが、その中に31人の日本人の名が連ねられている。この頃が日本人にゴルフが普及されたタイミングとも言われている。関西を皮切りに始まった日本でのゴルフ場開発だが、徐々にその波は関東へと波及していく。1906年(明治39年)11月に根岸の競馬場の中に9ホールが造られる。正式な名称は「ニッポン・レース・クラブ・ゴルフィング・アソシエーション」でこれが、国内で3番目、関東エリアで初のゴルフ場である。日本でのゴルフ場建設の草創期ということで見逃せないのが、「雲仙ゴルフリンクス」(現在の雲仙ゴルフ場)。これまでのゴルフ場が外国人をターゲットとした自分たちのためのゴルフ場だったが、ここは長崎県が計画したパブリックゴルフ場ということで、質を異にしているといえる。ただ、残念なことに利用者ターゲットは、外国人の避暑客だった。開場は、1912年(大正1年)8月。国内4番目のゴルフ場となった。

話を元に戻そう。日本人による日本人のためのゴルフ場はいつ誕生したかである。これまでのゴルフ場が外国人のためのゴルフ場という色彩が強く、日本人のプレーヤーがいたものの、排他的なムードは残存していた。日本人の意地がみせた開発は、1913年(大正2年)に始まった。東京府荏原郡駒沢村(前の東京オリンピックで誕生した駒沢オリンピック公園)に建設された「東京ゴルフ倶楽部駒沢コース」がそれ。念願であった日本人による、日本人のためのゴルフ場の誕生だ。1914年(大正3年)に9ホール、2300ヤードでオープンしたが、その後、現存のゴルフ場が正式にオープンした正確な日付はゴルフ史にも記されていない。

当時を偲ぶエピソードがある。ティーペグは使用されず、一つまみの砂。グリーンの形状もなぜか四角形で赤土を固め、砂を撒いたいわゆるサンドグリーンだった。ボールも中古品を塗りなおしたものを使用していたという。倶楽部運営も外国人のアドバイスを受け、スコアカード、競技規則など全てが英語表記だった。ゴルフの原点を考えるとその流れに従うしかなかったのだろう。その後、日本でもゴルフが普及、同ゴルフ場も手狭になったため、移転話が浮上し、1922年(大正11年)10月に横浜に「程ヶ谷カントリー倶楽部」が誕生したが、駒沢コースには存続論が強かったため1926年(大正15年)5月に18ホールとして正式にオープンを迎えている。が、地代問題などが再浮上、完全に移転を余儀なくされる運命に遭う。

一方、鳴尾GCに続き、1920年(大正9年)兵庫県明石郡垂水に「舞子カンツリー倶楽部(9ホール)』が誕生、大正11年には軽井沢ゴルフ倶楽部(旧)が9ホールでオープンする。また、程ヶ谷のオープンの同年には福岡ゴルフ倶楽部、横屋の跡地に甲南ゴルフ倶楽部も誕生する。この7倶楽部によって1924年(大正13年)に財団法人日本ゴルフ協会(JGA)が組織された。
紆余曲折を経て日本人のための日本人による文字通りのメイドインジャパンのゴルフ場が誕生した。日本人の寛容のこころ、流れに抗うことのない器用さが日本のゴルフ史を支えてきた。ゴルフ大国日本の誕生は、東洋的思想が原点となっている。

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