ゴルフヒストリー

NICE ON 11月号【Vol. 445】


スクラッチプレーヤー(ハンディキャップ 0)の第1号は、昭和初期の名物ゴルファー・室谷藤七氏

ゴルフを語る上で、ハンディキャップは切っても切れない関係。スポーツは数々あれど、年齢、性別の異なる者同士が同一条件下でその技量を競い、勝負を競える競技は、唯一ゴルフだけである。それを可能にしているのが、ハンディキャップ査定制度。そしてそれは、全員が平等の立場で技を競えるよう調整する手段である一方、技量を評価するために用いられていることは周知の通りである。
では、日本人のゴルファーとしてスクラッチプレーヤー(ハンディキャップ0)として認定された第1号は、誰だろう。歴史を紐解いてみると関西アマチュア選手権(1927年=昭和2年7月24日に始まった)の初代チャンピオン室谷藤七氏とある。
話はそれるが、そもそもこのスクラッチという呼び名はどこから来たのだろう。
語源を調べてみると、諸説がある中で、それは中世に遡る。
スクラッチとは、かすり傷や引っかく行為を言い、そこから派生して「ゼロから」とか「最初から」という意味を持っている。ある時、農民が仕事を終えて家路に着く際に最も馬術の長けた人、足の一番早い人が最後方からスタートするよう決め、地面に線を引いたという話が伝えられている。なんとも愉快で、牧歌的な話。ゴルフの起源が牧歌的であったようにおおらかなイメージで繋がるのが可笑しい。

話は、室谷氏に戻そう。氏は、1882年(明治15年)に神戸で生まれ、神戸ゴルフ倶楽部理事長などを歴任、東京ゴルフ倶楽部の会員としても在籍した。
その豪快な私生活ぶりや数々の戦績から昭和初期の名物ゴルファーとして知られている。1906年(明治39年)に東京商大(現一橋大学)を卒業後、神戸に帰り室谷商店の経営にたずさわった。在学中は、ボート、柔道、剣道、テニスと多くのスポーツをこなし、そのスポーツ万能の能力はゴルフ上達の原動力と言われている。
会社を経営するかたわら、神戸ゴルフ倶楽部の会員となり、ゴルフの腕を磨いた。そして、神戸ゴルフ倶楽部から、日本人ゴルファーとしては第1号のスクラッチプレーヤー(ハンディキャップ0)と認定された。そして、1926年(大正15年)に行なわれた「チャイナオープン」(1924年に創始され当時上海に在住していた英国人ゴルファーを中心に開催されたもの)に、大谷光明、赤星四郎、赤星六郎、川崎肇氏らとともに、ただ一人関西のゴルファーを代表する形で参加、17位の成績を残している。このチャイナオープンは、日本のアマチュアゴルファーの記念すべき初の海外遠征であり、日本ゴルフ協会が誕生した直後のイベントであったことから、多くの関心を集めた。
明治の男という呼び方は、その一徹な気性で象徴されるが、室谷氏は先駆者としての責任、そしてゴルファーであることの誇りも忘れることがなかったという。

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