ゴルフヒストリー

NICE ON 5月号【Vol. 439】


日本でのプロゴルファーの誕生は、キャディーが原点だった
キャディーマスターやグリーンキーパーも兼務していた

今でこそ、ジュニアから本格的にゴルフを習いプロを目指すという道も珍しくない。ゴルフが社会的に認知された昭和40年頃は、キャディーからプロへ、ゴルフ場の従業員からプロへというケースが多かった。現在では、学士プロも多くプロへの道は時代とともに移り変わった。プロの原点を探ってみると、意外やその出発点は、「キャディーから本職へ」という共通項が見出せる。
日本で最初のゴルフ倶楽部「神戸ゴルフ倶楽部・六甲コース」が18ホール規模となった1905年(明治38年)に、初めてキャディー競技会なるものが開催された。
当時、キャディーとして働いていたのは近郊に住む子供たちで、50人くらいいたという。仕事の合間にゴルフの真似事をしたり、クラブを拝借してゴルフを覚えていったらしい。
キャディー競技会は、これらのキャディーたちの日頃の労をねぎらう目的で始まった。
このキャディー競技会から育ったのは、越道政吉、中上数一。日本オープンに2連勝した宮本留吉もこの神戸ゴルフ倶楽部でキャディー(14~16歳の頃)を経験した。
ただ、最も早くプロを名乗ったのは、福井覚冶といわれている。福井は、横屋ゴルフ・アソシエーションで12歳からキャディーとして働き、舞子ゴルフ倶楽部が開場した折にキャディーマスター兼務のプロとなっている。1922年(大正11年)横屋コース跡に甲南ゴルフ倶楽部が創設された時、福井はコースの近隣にゴルフレッスンを行なう教習所をオープンした。これが、わが国初のインドア・ゴルフ場となった。

関東でのプロ第1号といえば、安田幸吉だ。東京ゴルフ倶楽部駒沢コースの近隣に住んでいたが、小学校時代にキャディーを経験、17歳でプロとなった。当然ながら現在のようにプロテスト制度のない時代。プロは、倶楽部の認定が必要で、しかもキャディーマスターやグリーンキーパーを兼務していた。
1918年(大正7年)英国からスミスというプロを招聘、日本人プレーヤーにゴルフを教えた。これが、外国人によるレッスンの最初とされている。安田もこの頃、トム・ニコルというプロにゴルフの技術を学び、クラブの修理や製作のノウハウも吸収している。
さらに、1921年(大正10年)には、デビッド・フードが来日、東京ゴルフ倶楽部などでレッスンを行ない、程ヶ谷の開場式にはプロプレーヤーとしてラウンド。コース設計の経験も持つD.フードは、大阪・茨木カンツリー倶楽部のコース設計も担当した。イボー・ホイットンと茨木で18ホールのマッチプレーを行なったが、これが、日本におけるエキシビション・マッチの最初とされている。
こうした外国人プロのアドバイスやレッスン技術を継承しながら日本人のプレーヤーも技術のレベルアップを図って行った。

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